岸田文雄首相は2024年4月の経済財政諮問会議において「今年、物価上昇を上回る所得を必ず実現する、そして、来年以降に、物価上昇を上回る賃上げを必ず定着させる」と述べている。これまで、物価安定、賃金安定の経済運営に慣れていた私たちにとって、先行きどうなっていくのか心配な局面である。
 本稿では、日本銀行の植田総裁が今年5月の読売国際経済懇話会で講演した内容を引用し、今後の中小企業経営をどのように進めていけばよいかの参考としたい。

1.読売国際経済懇話会での日銀植田総裁の講演内容
 日本銀行は、3月の金融政策決定会合で、先行き、「物価安定の目標」が持続的・安定的に実現していくことが見通せる状況に至ったと判断し、金融政策の枠組みを見直した。2013年4月の「量的・質的金融緩和」の導入以降、11年にわたって続けてきた大規模な金融緩和は、その役割を果たしたと考えている。
 直近3月の消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は、2%台半ばの伸びとなった。2年にわたり、2%を超える物価上昇率が続いているが、その中身は変化している。
 私は、これまで何度かの講演で、2021年以降の物価の動きを、「第1の力」と「第2の力」に分けて説明してきた。ここで、「第1の力」とは、輸入物価上昇を起点としたコストプッシュ圧力が物価を押し上げる力のことである。これに対して、「第2の力」とは、景気が改善するもとで、労働需給の引き締まり等を背景に、賃金と物価が相互に連関しながら伸び率を高めていく力、つまり賃金と物価の好循環を指す。言うまでもなく、「第1の力」は、起点となる輸入物価の上昇圧力が止まれば次第に和らいでいく、一時的な性質のものである。それに対して、「第2の力」は、企業の賃金・価格設定行動の変化を伴いつつ、より持続的に物価上昇率を高めていくことが想定される。
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(出典)【講演】賃金と物価の好循環と今後の金融政策運営(読売国際経済懇話会における講演)
    2024年5月8日 日本銀行総裁 植田和男

 最近の物価の動きを確認すると、食料品を中心とした財価格の上昇率は、このところ明確に縮小しており、「第1の力」が和らいでいることが確認される。一方、コストに占める人件費の比率が高いサービスでは、価格の緩やかな上昇が続いており、「第2の力」が強まってきていることを示唆している。
 先行きについても、「第1の力」が和らいでいく一方で、「第2の力」が引き続き強まっていくことを展望している。4月の「展望レポート」では、生鮮食品とエネルギー価格の影響を除いた消費者物価の上昇率は、2023年度の+3.9%から24年度に+1.9%へと低下したあと、25年度は+1.9%、26年度は+2.1%と伸び率を高めていくと想定している。生鮮食品を除く消費者物価の上昇率は、政府のエネルギー補助金が縮小・撤廃される影響からやや振れが大きくなるが、2024年度が2%台後半となったあと、25年度以降は、概ね2%程度で推移する姿である。
 このように、「展望レポート」の見通し計数からは、「第1の力」から「第2の力」へのバトンタッチが進む姿を想定していることが概ね分かる。

2.「賃金と物価の好循環」に向けた政府の支援策
 日本銀行のいう「第2の力」すなわち「賃金と物価の好循環」を実現していくためには、物価上昇を上回る賃上げが定着していかなければならない。そのため政府は、企業に賃上げするよう働きかけるとともに、支援策として「賃上げ促進税制」を打ち出した。
 給与等支給額が前年と比較して増加した時に税額控除が受けられる。中小企業の場合、給与等支給額の前年度比増加率が1.5%、2.5%で、税額控除率が15%、30%となっている。大企業の場合、給与等支給額の前年度比増加率が3%、4%で、税額控除率が10%、15%だったが、さらに5%、7%増加した時に税額控除率が20%、25%となる制度が新設された。
 さらに、教育訓練費が前年比5%(大企業・中堅企業では10%)増加すると税額控除率が10%(大企業・中堅企業では5%)上乗せされる。子育てサポート企業の厚労省認定を受けると税額控除率が5%上乗せされるしくみも追加された。
(参考:くるみんマーク・プラチナくるみんマーク・トライくるみんマークについて
    https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/shokuba_kosodate/kurumin/index.html
 こうして、賃上げや教育訓練費、子育てサポートにより、最大で45%(大企業・中堅企業で35%)の税額控除が受けられるようになった。
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(出典)経済産業省ホームページ. 令和6年度税制改正「賃上げ促進税制」パンフレット
    https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinzai/syotokukakudaisokushin/r6_chinagesokushinzeisei_pamphlet.pdf

3.今後の中小企業経営
 人手不足感が強まるなか、人材を獲得するためには、賃上げを実行する必要がある。ただし、賃上げを行うと人件費が上昇するため、原資を確保できるか見通しを立てることが重要となる。
 賃上げ原資を獲得する方法には、大きく分けて3つ、売上増加、生産性向上、賃金カーブの調整がある。
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(1)売上増加
 中小企業経営で、物価上昇により、仕入や諸経費の価格が上昇している。こうしたコスト上昇分を販売単価に価格転嫁していく必要がある。政府は、「パートナーシップ構築宣言」を活用し、より多くの企業が宣言することで、大企業も中小企業も付加価値に基づく適正な取引を尊重する機運が醸成されることを目指している。取引先と生産性向上の成果やコスト負担を適正にシェアする、良いものを価値を反映した適正価格で取引するなど、サプライチェーン全体で「取引の適正化」が進み、自社の業績も向上することが期待できる。
 コスト上昇の状況を説明し、値上げ交渉を粘り強く行っていく必要がある。ただし、単純に値上げ交渉すれば良いというものではない。取引先にとって自社が欠かせないパートナーとなるよう、自社の強みを磨いていく必要がある。

(2)生産性向上
 コスト上昇分をまるまる価格転嫁できる企業は少ない。帝国データバンクによる「価格転嫁に関する実態調査(2024年2月)」をみても、価格転嫁率は4割にとどまり、残り6割は自社で負担している。(https://www.tdb.co.jp/report/watching/press/pdf/p240309.pdf
 自社でコスト上昇分を吸収するためには、設備を更新したり、作業方法を改善していく必要がある。設備更新による生産性向上に対して、各種補助金が用意されている。中小企業診断士などの認定支援機関に相談し、補助金申請を検討してみてはどうか。

(3)賃金カーブの調整
 自社の売上や費用の見込みを試算しながら、人件費が将来の利益を圧迫しないか確認する。賃金カーブの調整とは、若手社員の給与を上げた場合、シニア層の給与上昇幅を抑えるというものであり、逆も考えられる。ただし、賃金の調整は、社員のモチベーションにも影響を及ぼすため、慎重に検討する必要がある。社会保険労務士などに相談することをお勧めしたい。

4.最後に
 これまで、物価安定、賃金安定の経済運営に慣れていた私たちにとって、物価上昇・賃上げの対応は難しい課題である。
 物価が上昇するなか賃上げ対応できない企業は、人手不足を解消できず、疲弊していく。また、諸物価や賃上げなどでコストが上昇するのに対し、価格転嫁や生産性向上などのアクションを起こさないと、業績はじり貧となる。
 今まさに、価格転嫁・生産性向上に向けた行動(アクション)が求められている。どのように行動すべきかお悩みの経営者は、是非とも中小企業診断士に相談されたい。

以上

● 略歴:高橋 利忠(たかはし としただ)
 都市銀行に16年勤務、学習塾FC本部に15年勤務後、2021年に経営コンサルタントとして独立開業
 経済産業大臣登録 中小企業診断士
 認定経営革新等支援機関(ID:106611001110)
 一般社団法人 東京都中小企業診断士協会 中央支部長