専門家コラム「VUCA時代に求められる戦略人事~人材活用の今とこれから」(2022年6月)
「人的資本経営」という考え方が広まり、人事の在り方も様変わりしつつあります。
2020年9月、経済産業省から「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書(通称:人材版伊藤レポート)」が公表され、人的資本経営への関心が高まるきっかけとなりました。2022年5月には、より具体的な推進方法や豊富な事例紹介をまとめた「伊藤レポート2.0」が発表されています。この動きをおさえることで、診断先企業の人材活用をいま一度見直し、あるべき姿ヘのヒントをつかんでいきましょう。
◆人的資本経営(Human Capital Management)とは
人的資本経営は、「人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営」(経済産業省、2020)などと説明されています。
従来よく使われてきた言葉、人的資源(Human Resource)には、「資源=限りがある、消費するもの」という意味が込められていました。
一方で「資本」とは、適切に投資をすることでその価値を高められるものです。人材、つまり従業員を無形資本ととらえ、その能力や経験、意欲などを高めていくことで、限られた人数であっても収益性を高めることが期待できます。
人的資本への注目が高まる背景には、ビジネスモデルの変化があります。製造力・生産力向上を重視してきた従来では、機械への設備投資など製造資本や財務資本が注目されてきました。
しかし現在は新しいサービス創出やコラボレーションといった、いわゆる知識労働の重要性が高まっています。DX(デジタルトランスフォーメーション)という言葉も広く知られるようになり、ビジネスモデルの変革も進んでいます。
これからの社会変化においては、従業員が新しい発想を生み出したり、新しい技術を積極的に取り入れたり、新しい人間関係を広げたりし続けることができるか、が企業の成長の大きなカギとなるのです。
人的資本経営を実践し推進する際に欠かせないものが、「戦略人事への転換」そして「人的資本情報の開示」です。
◆戦略人事への転換
戦後日本の企業経営では、人件費コントロールなど、管理人事の側面が強かったのではないでしょうか。
人的資本という考え方において、人事の役割は「管理」から「価値創造」へ、人材に投じる資金も「費用(コスト)」から価値創造に向けた「投資」へと位置づけが変わっていきます。
企業において人材の価値を最大限に引き出す、ということは、その企業の事業戦略に基づいた適切な人材を採用し適切に育成できているか、という論点と直結します。それは今のビジネスだけではなく、中長期的なビジネス変化への準備ができていることも重要です。例えば経営幹部候補を選出し戦略的に新規事業を任せる、といった取り組みです。ビジネスの変化に対応するためには、組織文化そのものや、業務における従業員の判断基準や行動の変化も必要になってくるかもしれません
出典:経済産業省「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会(人材版伊藤レポート)」
こうした動きを進めるには、経営戦略と人事戦略とが一気通貫している必要があります。「人材版伊藤レポート」でも、人材戦略について「3つの視点」と「5つの共通要素」が必要と説明されています。
『3つの視点(Perspectives)』
①経営戦略と人材戦略の連動
②As-Is-To Beギャップの定量把握
③企業文化への定着
『5つの共通要素(Common Factors)』
①目指すべきビジネスモデルや経営戦略の実現に向けて、多様な個人が活躍する人材ポートフォリオを構築できているか(動的な人材ポートフォリオ)
②個々人の多様性が、対話やイノベーション、事業のアウトプット・アウトカムにつながる環境にあるのか(知・経験のダイバーシティ&インクルージョン)
③目指すべき将来と現在との間のスキルギャップを埋める要素(リスキル・学び直し)
④多様な個人が主体的、意欲的に取りくめている要素(従業員エンゲージメント)
⑤時間や場所にとらわれない働き方の要素
経営戦略を発信するとともに、人事施策の推進を同時並行で進めていくことが重要になってきます。
出典:経済産業省「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会(人材版伊藤レポート)」
◆人的資本情報の開示
「人材版伊藤レポート」では経営陣が果たすべき役割・アクションの一部として以下を挙げています。
・「目指すべき将来の姿(To be)に関する定量的なKPIの設定」
・「現在の姿(As is)の把握、“As is-To beギャップ”の定量化」
・「従業員・投資家への積極的な発信・対話」
2022年5月時点では、こうした経営陣のアクションについて法令上の義務はありません。
ただ、上場企業に対しては、2021年6月に改訂されたコーポレートガバナンス・コードにおいて、人的資本の情報開示が求められています。また、2022年4月の東京証券取引所の市場区分見直しの手続きにおいて、上場企業は「コーポレート・ガバナンスに関する報告書」を開示しています。
企業の取り組みは秘密にするものではなく、むしろ積極的に開示する必要性が高まってきています。
2018年12月に国際標準化機構(International Organization for Standardization:ISO)が発行したISO 30414も注目されています。
正式名称は「Human resource management —Guidelines for internal and external human capital reporting」(邦訳:ヒューマンリソースマネジメント-内部及び外部人的資本報告の指針)で、企業・組織における人的資本の情報開示に特化した初の国際規格です。これまで企業が独自の体裁で公表してきた人的資本情報について、開示の標準化が進むとみられています。
ISO 30414には、11領域49項目が定義されています。最も項目が多いのは、「採用・異動・離職」の領域ですが、一覧化すると領域が多岐にわたることが分かります。
社内情報からこれらの算出に必要な情報を的確に抽出するため、アセスメントサービスやタレントマネジメントシステム導入に取り組む企業が増えてきています。
本稿執筆の2022年5月時点ではISO30414取得を義務づける動きはありませんが、これらの領域・項目が企業を診る物差しとして浸透し、株主や投資家、取引先から質問をされることも増えてくることでしょう。そしてこれらの項目は、株主や取引先だけではなく、従業員や入社希望者(採用候補者)にも有益な情報ではないでしょうか。人的資本経営に真摯に取り組むことで、従業員のエンゲージメントが高まり、優れた人材が集まりやすくなります。
◆まとめ
政府は成長戦略実行計画で「社会全体で人的資本への投資を加速し、高スキルの職に就ける構造を作り上げる必要がある」と打ち出しています。
人的資本経営の考え方は、経営者だけが知っていればいいものではありません。従業員一人ひとりも会社の想いや強化している取り組みを知ることで、会社への信頼度が高まり、自ら今後の成長を考える、自律性・主体性の発揮にもつながることでしょう。VUCA時代で組織の付加価値を高め続けるため、しなやかに変化し続ける、自律型組織を目指していきましょう。
■参考文献
・経済産業省「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書(通称:人材版伊藤レポート)」
https://www.meti.go.jp/shingikai/economy/kigyo_kachi_kojo/pdf/20200930_1.pdf
・経済産業省「人的資本経営の実現に向けた検討会報告書 ~人材版伊藤レポート2.0~」
https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/report2.0.pdf
・ISO30414『Human resource management — Guidelines for internal and external human capital reporting』
https://www.iso.org/standard/69338.html
・首相官邸 「成長戦略実行計画」
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/pdf/ap2019.pdf
■ 略歴
田口愛味子
合同会社みんプロ コンサルタント
中小企業診断士
一般社団法人 東京都中小企業診断士協会中央支部 執行委員/研修部副部長
キャリアコンサルティング1級技能士
NPO法人キャリアカウンセリング協会認定スーパーバイザー