小林 敬幸(こばやし ひろゆき)中小企業診断士

 “泰平の眠りを覚ます・・・・・”とあるように、約260年続いた江戸時代は総じて天下泰平だったように思われています。対外的にはいわゆる鎖国政策によって大きな変化はなかったようですが、国内では地震、津波、火山噴火、冷害による飢饉などの自然災害や火災などが相次ぎ、とても泰平な世とはいえない時代だったといえます。
この時代、どのようにして江戸人たちはこれらの困難に立ち向かい、克服していったのでしょうか。それを探っていくことで現代に生きる我々にとって学ぶべきことは何かをみていきましょう。

1. 地震、津波、火山噴火
 江戸時代にも何度も大地震が起きています。特に、元禄16年(1703)には房総沖で(余談ですが、この前年12月にあの赤穂浪士事件が起こっています)、さらに4年後の宝永4年(1707)にはいわゆる南海トラフを、震源地とする大地震が発生、さらに宝永地震の直後にはなんとあの富士山までが大噴火しています。
 これらの自然災害により、最も大きな変化があったのは、それまで増加を続けていた新田開発が大きな影響を受け、急激な減少を余儀なくされてしまいます。また、新田開発の減少で耕地面積の拡大が制限されたことで、人口もそれまで増加の一途だったものが、一転して減少傾向となりました。
 では、これらの自然災害に対して、当時の人々はどのようにして克服していったのでしょうか。
しかし、その前に、そもそもこれらの自然災害が起きるまでなぜ新田開発が盛んにおこなわれていたのか、を考えてみます。
(1) 米中心の社会であったこと
 よく知られていることですが、当時は年貢しかり、武士の報酬しかり、日常生活すべてにおいて、まず“お米”が主体の社会であったことがあげられます。したがって、より豊かになるためには、おのずと新田を開発し、米の収穫を増やすことになったのです。
(2) 領土の拡大が図れなかったこと
 戦国時代には大名諸侯が各地で領土を自由に拡大し、既存の田を獲得することができたのですが、江戸時代になってからは、大名の領土は確定されてしまったため、拡大が図れなかったことにより、やむなく領土内で新しく田を開発せざるをえなかったのです。
(3) 大名の財政が厳しかったこと
 徳川幕府は、幕府に対するいわゆる謀反を防ぐ対策の一つとして、参勤交代制度や御手伝普請(江戸城などの建設、河川の堤防構築など)などを大名に義務づけ、膨大な出費をさせて体力を抑え込んでいました。これに対して、大名は収入を維持させるために新田を開発して米を増産させていったのです。
 概ね以上のような背景で江戸時代初期には新田開発が盛んであった、ということがわかります。
 さて、それではこのような自然災害に対して、どのような対策がとられたのでしょうか。
 ここでは主に農業対策についてみていきます。
(1) 生産性の向上を図る
 これまでは新田開発が盛んであったことから、生産量は増加の一途でしたが、自然災害の影響で新田開発が抑えられたことで、今度は限られた耕作地からいかに生産量を増加させるか、が考察されていきます。
 そうして次のような対策が生まれました。
・田の耕し方、肥料のやり方、病害虫の駆除方法などを創意工夫していった。
・農機具の改良を行った。
・二毛作を取り入れた。
などを行うことで、耕作面積はそのままながらそこから収穫される米の量は再び増加していったのです。
(2) 読み書き、そろばんの習得
 創意工夫の対策が行われると同時に、農民自身のレベルアップも図られます。というのも、創意工夫するためには情報を収集し、共有することが必要です。そのためには、書物が読めて、文章を書くことができ、計算する力が求められます。こうした一人ひとりの地道な努力が着実に成果に結びついた、といえます。

2. 冷害による飢饉
 天明3年(1783年)には今度は浅間山が大噴火しました。さらに翌年にかけては主に東北地方を中心に冷害が襲い、飢饉となりました。いわゆる天明の飢饉といわれるものです。
 江戸時代の三大飢饉といわれるのは、享保の飢饉、天明の飢饉、天保の飢饉です。  なかでも、この天明の飢饉は、最大の飢饉であったといわれています。
 前述したように当時の農業は農民の創意工夫で成り立っていたのですが、この飢饉の前には大打撃を受けることとなってしまいました。さらに、追い打ちをかけるように江戸、大坂などで大規模な打ちこわしが発生しました。
 このときの老中は田沼意次でした。田沼意次といえば賄賂政治といわれていますが、一方で彼はあまりにも米に依存した経済体制を見直し、幕府の新たな財源を年貢だけでなく、商業資本から税金(冥加金)を徴収することや、貿易振興、蝦夷地開発等を行うことで賄おうと考えました。
 これは当時としては画期的な方策といえますが、商業資本の充実に熱心な他方で飢饉や打ちこわしへの対策が不十分であったと言わざるを得ません。
 田沼意次の後に老中になったのが、松平定信です。彼の実施した飢饉対策には次のようなものがあります。
(1)各大名に対し1万石につき50石の割合で領内に籾を備蓄することを指示した。(囲籾令)“国家に九年の蓄え無くば不足なり”
(2) 江戸の町人に対し経費節減を実施させ、節減高の7割を食料備蓄に充てた。(七分積金制度)
(3) 農村に対しては村ごとに食料備蓄の郷蔵を作らせた。
 さらに、特筆すべきは、代官制度を刷新して、それまでは世襲が慣例であったものを能力本位で新たな人員を採用し各地に派遣、現地でその地にあった政策を実行させるという、現在でいうところの「現場主義」を導入したことです。
 代官たちは、各現場でそれぞれの地域に合った政策を行うことで人々の支持を集め、飢饉からの復興をめざしました。
 代官といえば、豪商と結託した「悪」代官のイメージが強く思われがちですが、実際には幕府の行政を現場で支えていた「良」代官が多くいたようです。
 定信は、「白河の清きに魚も住みかねて元の田沼の濁りぞ恋しき」とうたわれ、緊縮政策で景気を悪化させたイメージが大きいですが、こと飢饉、打ちこわし対策では民間の復興を多いに心がけた行政サービスを実現したといえます。

3. 火災
 「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるように当時の江戸では火災が多発しました。なかでも、「明暦の大火(1657)」、「明和の大火(1772)」、「文政の大火(1829)」が三大大火といわれています。

 防火対策としては以下のものが行われました。
(1) 江戸城内から大名屋敷を移転し、跡地を庭園などにして家を建てないこと。
(2) 寺からの出火が多かったことから、江戸の中心部である神田、日本橋の寺を郊外の浅草、駒込、三田方面に移転した。
(3) 防火帯として、広小路、火除地を建設。上野広小路、両国広小路などが有名。
(4) 防火用水として、各町内に水桶を常置すること。また、各家屋にも手桶を常備することを命じた。
などです。
 また、大火からの復興が進むと、防火帯や道路拡張などの市街地再開発が行われ、いわゆるスクラップ・アンド・ビルトによって、周辺地に市街が拡大し街が拡がっていくという意外な効用もありました。

4. 江戸人の叡智に学ぶ
 以上、自然災害や火災などに対してどのように当時の人々が対応したかをみてきました。これらのことをから現在のわれわれが学ぶことをみていきます。

(1)これまでのやり方にこだわらず、発想の転換を図って創意工夫を継続していくこと。
地震などで新田開発が抑制されたことに対し、農作業のやり方や農民個々のレベルアップなど創意工夫をすることで生産性が向上した。
(2)いわゆる対処療法だけではなく、将来を見据えた創造性を身につけること。
飢饉や火災に対して、米の備蓄を義務化する、防火帯や日除地、水桶の常備など、今回の災害だけではなく、将来の発生にも備える体制を構築した。
(3)現場主義を尊重し、それぞれの現場に合った“現場目線”で対応すること。
代官の増員による現場目線での対応に見られるように、基本的な方針を立てたうえで、実際にはそれぞれの現場に合った対応を行った。

 渡辺崋山の言葉に、「眼前の繰回しに百年の計を忘るなかれ。」という言葉があります。
 目の前の問題をこなすことだけでなく、常に長期的な発想、ビジョンを忘れてはならない。
 この姿勢が江戸人にあったことに平成に生きるわれわれは学ぶべきでしょう。