専門家コラム「江戸時代の改革」(2015年4月)
江戸時代における改革としては、いわゆる幕府による三大改革が有名ですが、これらの改革だけではなく、個人や組織によりさまざまな形で改革が行われています。これらの改革をみていくことで現在につながるものを探ってみましょう。
1.農村コンサルタント
<大原幽学>
農村の復興、といえば二宮尊徳が有名ですが、大原幽学も力を尽くした一人です。そのオリジナリティ手法が、「先祖株組合の結成」と「年中仕事割の作成」、というものです。
「先祖株組合」というのは、荒廃した農村を復興するために
・各農家に五両分の耕地の出資を募り、組合を結成する
・耕地はすべて組合の共同所有、共同管理とする
・耕地でつくられた農産物の売り払い代金はすべて共有とし、これを復興費に充てる
というもので、現在の協同組合の原型ともいえるものです。
「年中仕事割」とは、農家の各戸ごとに年間の農事予定表(仕事割控)を作成し、それに応じた進捗管理をしていく、というものです。仕事割控には、たとえば、年間を通じてどんな農作業があるのか、それらの仕事量、すなわち、何人で何日かかる仕事なのか、また、各月にこれらをどう割り振るのか、などを計画し、書き込んで作成します。
これにより、農作業が計画的、合理的に進められ、生産性の向上につながりました。
<二宮尊徳>
では、薪を背負って本を読む銅像があまりにも有名な二宮尊徳の手法を見てみます。彼も協同組合的な手法を取り入れています。それは、「報徳仕法」と呼ばれるものです。
これは、・分度を立てる、・勤労する、・推譲する、これらによって「報徳の精神」が生まれる、とするものです。
分度を立てるとは、「入るを量り、出ずるを制する」、すなわち、その年の年収を予測し、その収入額に合わせた支出計画を立てる、というものです。
この前提として、彼は、農家各戸の過去の収支実績を調査し、それらに基づいた復興計画を個別に立てて、さらにこの期限は最小限10年として、決して拙速なものにはしませんでした。
勤労とは、文字通り一生懸命に働くことです。
推譲するとは、これらの努力によって生じた余剰分を他人のためや公のために譲り渡していく、というものです。
そして、譲り渡された側は必ず譲り渡した側に感謝の意(報徳)を持つことになり、これが広がることで地域全体が活性化していくことになりました。
彼ら二人の手法に共通することは、
○自ら農村に入り込み定住したことで、その地域の農民に自身の復興に対する意気込みを示し、他人ごとではなく、ともに農民たちと汗を流し未来を切り開いていく姿勢を示しました。
○また、過去から現在までの実態を農家各戸ごと個別に調査し、それに沿った形での復興計画を立案したことです。いきなり実態とかけ離れた計画を振りかざして、これを何としても達成するんだ、と息巻くのではなく、農家各戸それぞれの実態に基づいた実現可能性のある計画を立てていったことが成功への基礎つながったのです。
○次には、復興を行う主役は、あくまで農民一人ひとりだということを地道に説いて、農民たちの意識の変化を促していったことです。誰かがやってくれる、という気持ちではなく自分たちがやるんだ、という意識レベルになるまで一軒一軒コツコツと説いて回ったのです。これは、協同組合という手法にも結びつくもので、この地道な努力があってこそ成果が得られた、と言えるでしょう。
いわゆる改革を行うことは、「三つの壁への挑戦」だといわれています。すなわち、モノ(物理)の壁、しくみ(制度)の壁、そして、こころ(意識)の壁、です。そして、モノ壁やしくみの壁が変革できても、こころの壁が変革できなければすぐに元の状態へ戻ってしまうことになり、本当の成果は得られないでしょう。
2.大名編
幕府だけでなく、意外にも各地の大名も改革に取り組んでいます。
①村おこし
<米沢藩>
米沢藩では、あの上杉鷹山の改革の過程で、農村を担当する地方支配機構の改編が行われています。
まず、依然機能しなかった郡奉行を復活させ、その地位を上げて藩主側近にし、その下に郷村出役を新たに設置しました。そして領内で管轄区域をきめ、郷村出役を管轄区域の中心村に在住させて、農業の監督と生活指導にあたりました。
彼らは精力的に村むらをまわり、それぞれの現状に即した政策を立案し推進していきました。また、村単位で農民に農業の大切さ、自身の身のあり方、などを講話して、農民の意識の向上につながる地道な努力を続けていったことは、大原、二宮の二人にも相通じるものがあります。
<秋田藩>
秋田藩では、九代目藩主佐竹義和が寛政時に地方支配機構の改編を行って、成果を上げています。
こちらも各郡に郡奉行をおき、その下に郡方吟味役、見廻役、足軽がおかれ、それぞれがその担当地域に駐在しました。また、農業推進のため、藩士を諸国に派遣し先進の農業技術を学ばせて人材育成にも力を入れました。この派遣先には、上述した大原幽学も含まれていました。
②町おこし
財政再建の柱として大名たちが共通して取った方策は、殖産興業と専売制でした。競争力のある特産品を開発し、それを全国に売り出して藩の財政を潤す、というものです。
たとえば、土佐藩では、ミツバチの養育、薬草の栽培、ミカン、鰹節など、さまざまな特産品を育成しています。こうした特産品は多くの藩と競合するため、各藩は独自の商品開発をおこなっており、現在では地方の名産品として知られているものも多くなっています。
一方で、各藩は産物会所や物産会所などの専売機関を新設し、特産品の買い上げをこれらの機関に集中させ、領内の商人に販売を任せる、いわゆる専売制を敷いて特産品の販売に注力して藩の収益力の向上を図ったのです。
高松藩では、領内が雨が少なく、干ばつを受けやすい気候であることに注目し、米に代わる特産品として砂糖の生産を始めました。最初はなかなか成功しなかったのですが、領民の長い努力の末に開発に成功、次第にその品質も認められ、大坂に入荷する砂糖の中では圧倒的なシェアーを誇るようになり、これは現在でも、「讃岐の和三盆糖」として全国的にも有名です。
高松藩は砂糖会所という専売機関も設けて砂糖の独占販売を行い、多大の利益を生み出し、また、経費節減も行ったこともあり、累積していた債務の償却に成功しました。
3.商人編
①鴻池善右衛門
江戸時代も後半になると、各大名は両替商から多額の債務を抱え、どこも財政状況は火の車でした。そこで大名たちは改革の中で考えた対策の一つが、債務返済の帳消し、いわゆる借金の踏み倒しでした。これで大名の財政は改善したのですが、一方で、両替商たちは逆にその多くが倒産していったことはあまり知られていません。
しかし、その中でも例外的に生き残った両替商の一つが鴻池家でした。三井高房の「町人考見録」では、「大坂の鴻池善右衛門は、近年大名貸が将棋倒しのようになっているなかで、手回しよく事業を進めているのは、ひとえに商人心を備え、孝行心にあついことによるものだ」とたたえています。
ここでのキーワードは、「商人心」と「孝行心」ということです。「商人心」とは、常日頃から事業の維持拡大のための方策を考えそれを実践し続ける、ということです。また、「孝行心」とは、この商人心を継続させ、つつがなく後継者に受け渡す、いわゆるゴーイングコンサーンを目指していくための心構え、といったところでしょうか。
鴻池家では、この商人心と孝行心、特に孝行心を維持するために、家訓や家法などを何度も何度も繰り返し徹底させて、地道な努力を惜しまなかったということです。
②中井源左衛門
中井源左衛門は、数多くの近江商人の一人です。彼は19歳で自己資金2両(約20万円)で事業を始め、約70年間でそれを5万倍の約10万両(約10億円)にまで拡大しました。こちらも奇をてらった商法を用いて事業を拡大していったものではなく、地道に事業を継続していくことを怠らなかった結果といえるでしょう。
そして、特筆すべきことは、この時代に現在の資本制度にも似た独自の会計制度をすでに作り上げていた、ということです。
これは、総勘定元帳というべき大福帳と各種帳簿(売立帳、仕入帳、金銀出納帳など)から成り立っていて、これらを一定期間でしめて決算を行い、「惣勘定之部」という現在でいうところの貸借対照表(B/S)と「損得之部」という損益計算書(P/L)を作成し、さらにこれらから正味資産を算出していた、ということは驚きです。
このような合理的な会計制度によって、中井源左衛門はその事業を拡大させていきました。
以上、さまざまな改革をみてきましたが、これらの底辺には、奇をてらわず、愚直に自分の信ずるところを推し進める、といった姿勢が流れている気がしてなりません。
混迷する現在ではいわゆる”V字回復”なるものがもてはやされ、成功した企業がクローズアップされています。それはそれでよいことなのでしょうが、V字回復した後何も姿勢が継続されなければ、元の木阿弥となるリスクが高まります。
時間はかかるけれども手を抜かず着実に改革を継続していく、ことも大切なのではないでしょうか。二宮尊徳は、10年をかけて農村の復興に取り組んでいます。
現在でもある企業では、10年前に業績悪化から改革が始まり、社員の意識改革をはじめとして、仕事のやり方の見直し、経費削減などを推進し、少しずつではありますが、着実に業績を回復してきています。そして10年たった今でも、10年前を忘れるな、と改革の手を緩めていません。
派手さはなくてもU字回復でもよいから改革の手を緩めない姿勢を継続することが、かえって成功への近道といえるのかもしれません。
■小林 敬幸(こばやし たかゆき)
中小企業診断士
東京都中小企業診断士協会中央支部所属