小林 敬幸

 江戸時代末期、借金で破たん寸前だった備中松山藩(現在の岡山県高梁市)を見事に立て直した藩政改革者がいました。その人は山田方谷(やまだ ほうこく)さん、といいます。
 備中松山藩(岡山県高梁市)は古くから中国地方の瀬戸内側と日本海側を結ぶ物流の拠点として栄えてきました。現在もその面影を街並みや武家屋敷に残しています。
 この備中松山藩が江戸末期に借金に借金を重ね、その額は積もり積もって10万両(現在の金額では300億円とも600億円とも)にものぼっていました。
 嘉永2(1849)年、新しく藩主になった板倉勝静(いたくら かつきよ)は藩の立て直しを決意し、自分の教育係だった山田方谷さんを改革の旗頭に任命、方谷さんはさまざまな対策を実施して、7年後には10万両の借金を返済しただけでなく、逆に蓄財まで実現させました。
 今回は、この山田方谷さんの行ったさまざまな対策をたどりながら、その教えに触れてみたいと考えます。
1.山田方谷さんの略歴
 まず、山田方谷さんの略歴を簡単に年譜すると次のようになります。
 文化2年(1805年)備中松山藩西方村(現在の高梁市中井町西方)に生まれる
 文化6年(1809年)新見藩 丸川松陰塾で学ぶ
 文政12年(1829年)藩校有終館会頭に抜擢される
 天保5年(1834年)江戸遊学で佐藤一斎の門下に入る。佐久間象山と出会う
 弘化元年(1844年)板倉勝静の教育係となる
 嘉永2年(1849年)藩の元締役を命ぜられ、藩政改革に着手
 嘉永5年(1852年)撫育方、産物方を設置。農兵隊を創設
 文久2年(1862年)板倉勝静、老中となり、その幕政顧問となる
 明治元年(1868年)戊辰戦争起こり、征討軍に対し無血開城する
 明治2年(1869年)私塾をおこし、子弟教育につとめる
 明治10年(1877年)死去(73歳)
2.山田方谷さんが行った対策
 それでは、山田方谷さんが実際に行った対策をたどってみます。
①負債の整理
 まず、取り組んだのは、雪だるまのように増える借金の問題でした。彼は次のように対策を行いました。
 ○”自ら”藩の財政状況を克明に調査し、藩の収入は表高が5万石といわれているが、
  実収は2万石にすぎないことを確認した。
 ○そのうえで今後の返済のみならず、産業振興などを盛り込んだ緻密な返済再建計画を策定した。
 ○”自ら”大阪の借入先へ出向き、これらをありのままに示した上で、返済への協力を求めた。
 ○藩の代表”自ら”がすべてを明らかにしたその誠意に対し、
  借入先である大阪の商人は返済への協力に応じた。
 ここで大事なことは、藩の粉飾決算を明らかにし、これを正直にありのままに相手に示したこと、
そして、「自分」が現場に出る、「自分」の手でやる、人任せにしない、ということでしょう。
②産業の振興
 大阪の商人に示した再建計画の一つです。
 ○備中地方で採れた良質の砂鉄をもとに、農民の意見を聞きながら、
  「備中鍬」(歯が3本あり、深く掘れ、土の抜けがたいそう良い)や釘などの特産品を開発した。
 ○農産物(タバコ、茶、高級和紙、菓子など)の特産品を奨励した。
 ○これらの商品に「備中」の名前を付けて(いわゆるプライベートブランド商品)、
  さらにアメリカ製の帆船を購入し、海伝いに、大阪を通過して、
  いきなり一大消費地の江戸で直接販売させた。
 当時、江戸は大都会でしたが、その近郊ではまだまだ農地が広がる田園地帯であり、「備中鍬」は大そうな評判を呼びました。また、火事が多い江戸では、普請が多く、「備中釘」は重宝がられました。
 この当時、現在でいうところのPB商品を、それまで卸していた大阪を飛び越えて、いきなり一大消費地である江戸にターゲットを絞り、しかも直接販売したことは、とても武士の考えたものとは思えません。(ただ、彼の実家は農業とともに菜種油の製造販売で生計を立てていたそうなので、少しノウハウがあったのでしょう)
 江戸では、中間マージンがカットされた、安くて、しかも高品質な「備中商品」を手に入れることができました。
③節約令の公布
 ○②の産業振興におおよその目途がついた後に実施した。
 ○節約政策の対象は、主として中級以上の武士と豪農、豪商を対象とした。
 ○下級武士や一般の農民は既に困窮を極めており、これ以上の節約を要求はせず、
  逆に驚くべきことに農民からの年貢の取り立てを減らした。
 ○一方で、自らの給料は下級武士並みにしかもらわず、かつ自分の家計簿を他人に任せ、
  さらにこれを藩内に公開、身の潔白を証明した。
 江戸時代、いわゆる3大改革が行われたが、最近よくいわれることですが、これらはいずれも、いわゆる幕府のための改革であって、現在のような国民の社会福祉向上など、国民のための改革ではなかったということです。
 そんな時代にもかかわらず、方谷さんは農民からの年貢の取り立てを減らす、という年貢ONLYの当時では及びもつかない対策を考えだしたのは、時代を先取りしていたといってもよいでしょう。(これは一方で、産業振興策からの収入の目途が立った上で、というしっかりした裏付けを踏まえているものでもあります)
 
④教育改革
 ○商人や農民など、いわゆる庶民のために家塾を13、寺子屋62を作り教育を施した。
 ○身分に関係なく、優れた生徒を役人に抜擢した。
 ○明治に入り、旧岡山藩藩校の閑谷学校の再興に尽力、自らも教壇に立った。
 
 戊辰戦争では、無血開城し、戦うことなく藩の事後処理を行った後は、表舞台から身を引きましたが、子弟の教育は引き続き熱心に行い、教育者として次の世代を育てることに、その後の生涯を捧げました。
 そして、幾多の人材(いまは、人財、でしょうか)が巣立っていったことは言うまでもありません。
 ”一流のリーダーは人を遺す”といわれますが、まさに方谷さんに当てはまることばではないでしょうか。
  
3.方谷のことば
 最後に、方谷さんが残したことばを少しご紹介しておきましょう。
 
 ○それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて事の内に屈せず
 ○義を明らかにして利を計らず
 ○至誠惻怛(しせいそくだつ:誠意を尽くして人を思いやる)
【参考文献】
・「山田方谷の夢」(野島 透)明徳出版社
・「山田方谷」(竜門 冬二)人物文庫 学陽書房
★なお、平成25年9月25日(水)付け読売新聞の15面に、
 ”古今をちこち”というコラムで、
 歴史家の磯田道史氏の山田方谷に関する記事が載っています。
 
 
 
■小林 敬幸(こばやし ひろゆき)
中小企業診断士
東京都中小企業診断士協会中央支部所属