国際部 岡田 啓吾

 ミャンマーにおいて今年の2月1日に軍部によるクーデターが発生し、反対する市民への弾圧が報道され、世界中からの注目が集まっています。今回はそのミャンマーについて私自身の訪問体験を交えつつ取り上げたいと思います。

1.ミャンマー連邦共和国概要
ミャンマーはインド、中国、ラオス、タイと国境を接しており、インドシナ半島に広大な国土を有する国です。豊富な労働力と大きな市場を持ち、高いポテンシャルを持っているにもかかわらず、長らく軍事政権下で外資企業の進出が阻害されてきましたが、2011年にようやく民政移管が行われ外資の導入が積極的に進められており「アジア最後のフロンティア」とも呼ばれています。

●基本情報
面積:68万平方キロメートル(日本の約1.8倍)
人口:5,141万人(2014年9月(ミャンマー入国管理・人口省発表))
首都:ネーピードー
民族:ビルマ族(約70%)、その他多くの少数民族
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出典:外務省HP

2.2度の旅行体験から感じたミャンマーの国情
私自身ミャンマーには2014年と2019年の2度個人旅行で訪れています。
初めて訪問した2014年にはミャンマー最大都市のヤンゴンとゴールデンロックで有名なチャイティーヨー山を、2度目の訪問である2019年は古都パガンとミャンマー第2の都市マンダレーをそれぞれ訪問しました。
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訪問した場所の違いもありますが、民主化がまだ本格的に進んでいなかった2014年とその5年後の2019年では旅行者としても大きな違い を感じました。
例えば2014年は予約サイトで予約できるホテルが最大都市であるヤンゴンでさえかなり少なかったのですが、2019年には格安で滞在できるホテルを多数見つけることができました。また、旅をする中での現地の方々とのコミュニケーションという面でも2014年訪問の際は英語が理解できない方がまだまだ多かった印象ですが、2019年には若い方を中心に英語を理解できる方がかなり増えていて外国人旅行者への対応も慣れている方がかなり増えたように感じました。
このような面からも旅行者の一人として民主化が進展したミャンマーの5年間の急速な変化を肌で感じることができました。

その一方で穏やかで親切な国民性は5年たっても変わらず健在でした。1度目の訪問でも、2度目の訪問でも困ったときに現地でいろんな方に助けていただきました。例えば、街のレストランで一人で食事をしていると声をかけてくれて現地の観光の情報を教えて下さったり、滞在したホテルのスタッフの方が自ら良心的な料金で一日街をガイドしてくださったり、現地の方々に純粋な親切心から助けていただいた体験がいくつもありました。
これまで東南アジアでは9か国に足を踏み入れてきて、他の国々では陽気でおおらかな雰囲気がある反面、タクシーなどでぼったくりにあったり、道を案内したあとにしつこくチップを要求されたりなどの体験も少なからずありましたが、ミャンマーについてはほとんどそのような体験をすることがなく、東南アジア諸国の中でも際立って穏やかで親切な国民性を感じることができました。

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3.ミャンマーの歴史
このように穏やかで親切な国民性をもったミャンマーですが、長年に渡り軍による独裁政治とそれに対する民主化運動の対立が繰り広げられてきました。ここではミャンマーの歴史についてご紹介いたします。

(1)植民地支配から独立国へ写真6
時は第二次世界大戦に遡ります。19世紀後半から英国植民地となっていたミャンマーでは対英独立運動が高まり、当時東南アジアへ侵攻してきた日本軍と共闘して1943年にビルマ国が建国されました。
その当時、独立運動の指導者であった人物が「ミャンマー独立の父」とも称され、今なおミャンマー国民に敬愛されているアウン・サン将軍でした。アウン・サン将軍は第二次世界大戦中に対英独立運動を支援する日本へ渡って日本軍による軍事訓練を受けており、日本にも非常にゆかりのある人物です。(一時期は「面田紋次(おもたもんじ)」という日本名を名乗っていたようです。)
しかし、独立後の指導者として国民に期待されていたアウン・サン将軍は1948年1月のビルマ国独立の直前に政敵によって暗殺されてしまいました。

(2)軍による独裁政治
アウン・サン将軍暗殺後に独立を果たしたミャンマーですが、その後何度も国軍によるクーデターが起こり、長年に渡り軍事政権による独裁が行われることになりました。経済的には社会主義体制が敷かれ、企業の国有化や鎖国政策が推進されることになりました。
そのため、他の東南アジア諸国が外資の導入等により著しい経済成長を遂げる中、ミャンマーは東南アジアの貧困国として取り残されることとなりました。
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このように軍事独裁政権が続く中1988年には学生を中心として民主化運動が起きました。そしてその当時、民主化運動を指導したのが先述のアウン・サン将軍の娘であるアウンサン・スーチー氏でした。アウンサン・スーチー氏は国民民主連盟(NLD)を結成して民主化運動を進めましたが、国軍はこれを武力で弾圧しました。そして1989年6月に軍事政権は国称をミャンマー連邦に、首都名をラングーンからヤンゴンにそれぞれ変更し、さらに同年7月にはアウンサン・スーチー氏を自宅軟禁しました。

その後1990年に総選挙が行われ、国民民主連盟(NLD)が圧勝しましたが、軍政は政権の移譲を拒否し、アウンサン・スーチー氏の軟禁も続くことになりました。また、アウンサン・スーチー氏に対しては1991年にノーベル平和賞が授与され、国際的な関心が強まりましたが、長年に渡り民主化が実現することはありませんでした。

 

(3)アウンサン・スーチー氏の解放と民政移管
転機が訪れたのは2007年10月のテイン・セイン氏の首相就任でした。テイン・セイン氏はもともと軍出身だったにもかかわらず、2010年にアウンサン・スーチー氏の軟禁状態を解除すると2011年3月には大統領に就任し民政移管を進めました。民政移管後は欧米諸国の経済制裁が緩和され、景気が拡大し、7%を越える経済成長率を記録することになりました。
2015年11月にはアウンサン・スーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が総選挙で歴史的な大勝をおさめ国会の過半数を確保し翌年4月から国民民主連盟(NLD)主導の政権が誕生しました。国民民主連盟(NLD)党首のアウンサン・スーチー氏は憲法の制約上、大統領への就任することができなかったため、新たに設置された国家顧問に就任し、事実上の最高指導者としてミャンマーの統治を行うこととなりました。

4.今回のクーデターの背景
このような紆余曲折を経てようやく半世紀以上に及ぶ軍事独裁から脱却し、民主化を果たしたミャンマーでしたが、今年の2月1日に軍によるクーデターが発生し、アウンサン・スーチー国家顧問やウィンミン大統領が拘束されて軍部が再び政権を掌握することとなってしまいました。
なぜ軍部はこのようなクーデターを決行したのでしょうか。その背景としては、2020年11月の総選挙で国民民主連盟(NLD)が圧勝し、アウンサン・スーチー政権が信任されたことが挙げられます。ロヒンギャ問題への対応で国際的な批難が高まっていたにもかかわらず、アウンサン・スーチー政権に対する国民の支持が全く揺らいでいなかったことがこの総選挙によって証明され、憲法改正に向けた動きが進むことを国軍が恐れたためクーデターを決行したものと言われています。

ただし、憲法には以下の規定があるため、憲法改正は軍部の同意がない限りは実質的に不可能な仕組みになっています。
①各議会の4分の1の議席を軍人枠とする
②憲法改正には3/4越えの賛成が必要

このため、今回このタイミングで軍部がリスクを冒してまでクーデターを行う必要性はなかったのではないか、また、国内外からここまでの反発を受けることを軍部は予想できていなかったのではないかという見方もあるようです。

今後、国軍は非常事態宣言の解除後、アウンサン・スーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)を排除したうえで総選挙を行い、国軍主導の政権樹立を目指すものとみられています。
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5.最後に
いかがでしたでしょうか。私自身ミャンマーに旅行者として2度滞在しましたが、ミャンマーの歴史や今回のクーデターの背景を確認する中で、ミャンマーのここ数年間の変化は半世紀近く停滞してきたこの国にとって歴史的なものであったことが改めて理解で                              きました。
今回のクーデターをきっかけにミャンマーが以前のような軍事独裁国家に戻ってしまうのか、それとも民主化を継続して他の東南アジア諸国と肩を並べる国に成長することができるのか「アジア最後のフロンティア」ミャンマーの今後が注目されます。

■岡田 啓吾(おかだ けいご)
1987年生まれ,兵庫県神戸市出身。京都大学法学部卒業後,重工メーカーにてアフターサービス営業、総務業務に従事。その後コンサルティング業界に転職。現在は日系コンサルティングファームでパッケージシステム導入プロジェクトにITコンサルタントとして参画している。2019年9月中小企業診断士登録。