国際部 吉岡裕之

 シンガポールとは不思議な縁があり、同国には1995年~1998年と2013年~2017年の合計7年間を駐在員として過ごしました。「シンガポールに7年間」と言っても、最初の駐在から2度目までには20年も隔たりがあることから、2013年に2度目の駐在生活を始めた時には、全く別の国に来たような印象がありました。
 今回グローバルウインドで執筆させて頂くにあたり、シンガポールがこの20年間でどう変わったのか、そして2度の駐在生活でどういう出来事が印象に残ったのかなどを簡単に振り返ってみたいと思います。

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1.国土と人口
 よく「シンガポールは23区内と同じ面積」という表現を耳にしますが、1990年代のシンガポールの面積が23区のそれ(627.57 km²)とほぼ同じであったことがその所以です。現在、シンガポールの国土面積は725.7 km²と公表されています。継続的に埋め立てを進めた結果、1990年代から現在までの間におよそ100 km²も国土が広くなったということになります。
 狭い国土にも関わらず、シンガポールの人口は1995年から2020年の間に約220万人増加しました(1995年350万人から2020年570万人)。シンガポールの出生率は1.16で日本の1.43より低いのにもかかわらず人口が増えているのは、国策として積極的に移民を受け入れていることにあります。

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2.ビジネス
 シンガポールは、韓国や香港と並びNewly Industrializing Economies (NIEs)の一角として1980年代に工業化が急速に進みました。私が最初に駐在していた当時(1995年前後)、工業化の波は既にシンガポールからマレーシアやタイへと移りつつありましたが、まだ日系大手の工場が多く残っており重要な雇用主として同国に恩恵を与えていました。
 2000年代から2010年代にかけて、賃金の上昇を理由にシンガポールのほとんどの日系工場は、他のASEAN諸国や中国へと移転していきました。シンガポールには、今では多くの日系企業が拠点を置いていますが、そのほとんどはアジア地域の本社機能としての拠点であり、大量のワーカーを雇用していた1990年代とは全く違う存在になっています。

3.観光
 “観光名所の世界3大がっかり”という言葉を耳にしたことがおありでしょうか?
ベルギーの小便小僧、デンマークの人魚姫とならび、シンガポールのマーライオンはその“3大がっかり”の一角を占めていました。と言うのも、1995年当時のマーライオンの周辺には駐車場がなく、観光バスが路肩に一時停車しているわずかな時間に写真だけ撮ってそれでおしまい、という何とも味気ないものだったのです。
 しかし、20年間を経てマーライオンの周辺も大きく様変わりをしました。設置場所の周りには素敵な公園が出来、そして対岸にはあの“マリーナベイサンズ”が建てられました。埋め立てによって、マーライオンはいろいろな角度から眺めることが出来るようになり、ゆっくりと景観を楽しむ場所へと様変わりしたのです。

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4.1995年~1998年の印象的なできごと
 1997年11月16日、マレーシアのジョホールバルで開催された、フランスワールドカップ出場を決めた日本対イランのサッカーの試合を観戦しました。ジョホールバルとは、シンガポールから橋を渡った対岸にあるマレーシアの都市です。当時の私は、サッカーに全く興味がなかったのですが、歴史的なビッグイベントの現場にいられたことは今でもいい思い出になっています。
 1度目の駐在期間中で、最もインパクトの大きかった出来事はアジア通貨危機です。タイを震源としたアジア通貨の大暴落は、アジアのみならず世界中の経済に大きな影響を与えました。当時の私は機械メーカー販社のシンガポール法人に在籍していましたが、最大の取引国であるインドネシアへの販売が大きく落ち込んだことから、人員の削減の理由で日本へ帰任することになりました。

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5.2013年~2017年の印象的なできごと
 2度目の駐在が始まった年の12月、インド人街で暴動がおこりました。外国人労働者がバスにひかれて死亡した事故をきっかけに発生したもので、シンガポールにとって40年ぶりの暴動でした。出稼ぎ労働者の賃金は私たちから見ると、とんでもなく安いのですが、彼らの国では大金になるため差別的な扱いに耐えながら生活をしています。この暴動は日々ため込んだ彼らのうっぷんが爆発したものだと思います。
 2015年はシンガポールにとって特別な年でした。この年はシンガポールがマレーシアから独立して50年目の節目にあたる年で、シンガポール全土に“SG50(シンガポール50周年)”のロゴが躍っていました。そんな中、3月23日にシンガポールの“建国の父”であるリー・クアンユー氏が亡くなりました。弔問所には長蛇の列ができ、私の知人の多くもこれに参列しました。普段政治の話などしない友人が、目に涙を浮かべてリー・クアンユー氏の話をしていたのがとても強く記憶に残っています。

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6.最後に
 今回シンガポールでの駐在生活を振り返ってみて、しばらく忘れていたことをいろいろと思い出しました。それにしても、最初の駐在から2度目の駐在までの間にシンガポールは大きく様変わりをしました。行政手続きは、ほとんどデジタル化され、多くの分野で日本の先を行く存在になっていました。一方、シンガポールが大きな飛躍を遂げた20年間で日本はどれだけ変わったでしょう。
 かつてアジアの小国だったシンガポールは、国家の近代化にあたり日本を手本にしたと言われます。これからの日本は、欧米だけではなくシンガポールや他のアジアの国々からも多くのものを学ぶ必要があるのではないかと思います。

■吉岡 裕之(よしおか ひろゆき)
1966年生まれ。関西大学経済学部卒業。機械メーカーの販社と半導体の二次商社で海外関連のビジネスに従事。2020年3月に日本生産性本部の中小企業診断士コースを終了後、5月に中小企業診断士として登録。東京協会中央支部国際部所属。