グローバル・ウインド「国際化支援最前線!!中小企業経営の国際化支援先輩に聞く!!#07」(2020年01月)
Global Wind (グローバル・ウインド)
#07 自称ドメスティック診断士が海外へ 山﨑 肇さん
中央支部・国際部 藤田有貴子
1.はじめに
2018年7月にスタートしたこの連載「国際化支援最前線!!中小企業経営の国際化支援先輩に聞く!!」。今回は番外編として、これまでの定型質問形式からフリーインタビュー形式としてお届けします。
番外編の記念すべきゲストは、国際部副部長、会員部として中央支部ではなくてはならない大活躍の山﨑肇さん。熱くてエネルギッシュで楽しい企画のイベントで、ぐいぐい引き込んでくださるキャラクターにみんなつい巻きこまれて楽しい時間を過ごしている方も多いのではないでしょうか。
2.中小企業診断士になるまでのあゆみ
-国際派診断士として、山﨑さんがご推薦されたのですが、どのように思われましたか?
山﨑さん「いまだに企業内でドメスティックな仕事してるので、国際派診断士インタビューの推薦をいただくとは、驚きました。実は4年前に定年退職後すぐにでも独立して国際派診断士活動を始めようと考えたのですが、ひょんなご縁があり霞が関で公務員をやることになり、その後現在は損保系のコンサルティング会社でリスクコンサルタントをやっています。国際部に入ったのは現役時代の会社で上海に子会社の販社を立ち上げて4年ほど現地責任者をしていましたので、なにかそのつながりで診断士活動がしたかったからです。」
-面白そうなお話ですね!ではまず、山﨑さんが現役時代どのような経緯があって上海でのお仕事をされるようになったのか、そこに至るお話しあたりからお聞かせいただけますか?
「まず会社に入るところからいきますか。新卒で入った会社で1年半ほどして、転職を考えまして、当時大阪で法人営業をしていたのですが、外回りの途中で読んだ日経新聞にあった、今年の就職最前線という特集記事で募集人数に達していないと思われる会社が数社挙げられていました。『過年度(既卒者)を採用しているのでは』と目星をつけて、直接そのカメラフィルムメーカーの新宿本社の人材開発室に電話して担当者に「おたく過年度(既卒者)採っているでしょ。」って迫ったのです。」
-新聞記事を見て推測をされて、その会社に直接電話で問い合わせられたのですね。なんという行動力!
「当時、携帯電話はもちろん、カード型の公衆電話が世の中に出る前。相手の回答に10分も待たされて、100円玉がどんどん無くなるのに焦りました。結局、関西支社に行って、東京本社に行ってそれが最終面接で、翌週電話が来て『内定したんで、いつからこれますか?』って。それが1980年の暮れのことでした。」
-早すぎます!驚きの展開ですね。実際に入社して、いかがでしたか?
「結局、定年までずっといることになりました。入社後は、カメラの販売から始まって、フイルムやプリントの事業に携わりました。大阪、兵庫、神戸、その後、東北には8年以上も居ました。東北では6県の子会社の現像所を統合するプロジェクトリーダーになりました。」
-統合プロジェクトのリーダーとはどのようなお仕事だったのですか?
「統合というのは1つにはリストラですから、いろいろありました。各県で民力度も人事制度もことなるので、人事制度や給与体系を揃えるのは大変でした。プロジェクトを終えた当時35~36歳でしたが、東京本社に呼び戻されて、東京販売部で官公庁担当のグループリーダーとして、宮内庁をはじめ、いろいろな官庁を担当できたことはいい経験になりました。
その後、また子会社統合のプロジェクトリーダーになって、今度は全国の子会社を1社にするという大仕事でした。1998年にこの統合プロジェクトは完了しました。」
-その後もプロジェクトリーダーを続けられていたのですね。
「そうですね、全社の物流を大改革するプロジェクトもやりました。世界市場から見て、需要と供給のバランスを考えないといけない。キャッシュフローを作るには在庫を減らさないといけない。無駄な在庫を減らすためには、需要に対して生産量をどう調整するかとか…。
統合プロジェクトのときにBS・PLなどの決算書や財務諸表や資金繰りに詳しくなって。その頃、技術者の管理職は利益の管理やBS・PLに弱いので、彼らに対する利益マインド講座の社内講師をやっていました。プロジェクトリーダーをしながら、その講座を2年受け持ちました。」
-BS・PLと診断士らしいワードが登場されましたね。それにしても講師とプロジェクトリーダーの兼任とはお忙しかったのではないでしょうか。
「大変でした!統合プロジェクトでは稟議を通すために、社内に分かりやすく説明しないといけませんし。大変でしたがこの貴重な経験を形にしたいと、経営の知識をちゃんとしたものとして自分の中で残しておきたいと思って、大きなプロジェクトが終わった後、中小企業診断士の勉強を始めました。旧制度の商業部門で勉強しましたが、旧制度最後の年は不合格で、受かったのは2002年の新制度で、2003年3月に登録しました。」
3.国際派診断士としてのあゆみ
-2003年に中小企業診断士を取得・登録をされたのですね。先ほど、世界市場というお言葉がでましたが、取得を機に国際派診断士のご活動を始められたのですか。
「いきなり国際派診断士というわけではなかったですが。診断士に合格した2003年の3月ころに世界的に携帯電話のカメラが爆発的に普及して、勤務先の会社の扱っていた携帯電話用カメラのマイクロレンズの国内の生産が急激に追いつかなくなりました。当時は経営企画にいたのですが、マイクロレンズの中国での生産を検討しはじめました。当時は携帯電話の部品メーカーなどのB to Bの顧客企業も中国にどんどん進出していて、中国は世界の工場といわれていた時代ですね。マイクロレンズの部品は中国で作って、当時圧倒的なシェアを持っていた北欧の携帯電話メーカーの中国の完成品工場に供給するという計画です。そのプロジェクトリーダーになって現地調査をしました。リスクもありましたが実現可能性は十分あることがわかり、その部品の調達と完成品メーカーへの供給を実現するために、上海に販社(貿易商社)を作ろうという企画を提案し、本社決裁を取って2005年7月、単身現地に乗り込みました。」
-いきなり。海外プロジェクトのリーダー。いえ、リーダーではなく、経営者、ですか?
「一応、総経理(社長)でしたが、プロジェクトリーダーの延長ですよ。無我夢中でした。販社なので供給先の完成品メーカーの需要を予測して、部品の製造工場に数量調整して。ゼロからのスタートだったのでまだ完成品メーカーの工場も稼働してなくて、半年くらいは売り上げがなかったのです。どんどん資本金を食いつぶしてしまい、債務超過寸前までいきました。」
-債務超過寸前とは大変でしたね…
「会社を設立した時に日経のインタビューを受ける機会があって。『売上100億円めざします』と思わず言ってしまったのに、売上0でしょ。大変だ!となって、なんとか頑張ったら、次年度の決算をしめたら何と!売上高は日本円換算で100億円を超えたのです!その後3年間は本当に順調で資金も潤沢に回り出し、中国にあった関係会社にグループ内融資を始めたりしました。この金融事業でまた収益が上がって。あの頃は本当に、楽しかったですね。」
-売上0円から100億円とはまさに大転換ですね!ちなみに海外にいきなり赴任されることになったとのことですが、もともと中国語はお得意だったのですか?
「いえ、行く前に少し外国語学校に通ったのですが、全然だめでした。覚えたのは現地に行ってからです。北京出身の先生のところに毎日通って、宿題を与えられて中国語で日記を書くんです。翌日書いて持っていくとまた添削してくれるのですが、あれが非常によい勉強になりました。それと買物もよく現地の市場にいきました。市場のおばさんは、英語はもちろん日本語も全く通じないので、必然的に中国語で生活することになります。おかげさまで当時は会話にはあまり苦労しないようになりました。必要に迫られると喋れるようになるものですね。」
-山﨑さん、さすが国際派診断士ですね!中国でのビジネスというのはいかがですか。
「中国は法治国家といいながら人事国家、ビジネスにおいても良きにしろ悪しきにしろ、人付き合いの仕方がとても大事です。メンツ(面子)の世界でメンツを非常に重んじるので、メンツをつぶしたらダメ。メンツをつぶさずに、言うべきことは言わねばなりません。日本人の話す内容はあいまいで誤解を受けやすいので、中国の人にわかるような、間違って伝わらない話し方をしないといけないですね。通訳してもらうにしても誤解がないように心がけたほうがいいです。」
-国によって文化の違いもあるのですね。山﨑さんの調整力や気づかい、配慮が中国でも活かされていたのでしょうね。ちなみに、中央支部国際部に入られたのはどういうきっかけなのですか。
「日本への帰国後、入塾したマスターコースで中国での話をしたら、8月の国際派診断士の納涼大会に誘っていただき、ご挨拶して、気がついたら国際部にそのまま入ることになっていました。国際部セミナーの企画やコラボイベントなどを担当していますが、ハラール食の体験や酒蔵見学とか、つい自分が楽しいことを企画してしまうんですけどね(笑)。
診断士活動もWBAや中小機構の専門家など国際ビジネスとしてはいろいろ登録しているので、今年からは気合を入れて取り組んでいきたいと思ってます。」
-山﨑さんが幹事のイベントは楽しさが全身から伝わってきてわくわくします。なお、国際派診断士では、どの領域を取り組まれたいですか。
「まず、自分がいたこともある中国ビジネスは押さえたいですね。10年前のことは語れるけど今は通じるのかダメなのか、変化しているところをやっておかないといけないと思っています。中国の知り合いからは聞いたりするけど、実際に行ってみて仕事にかかわらないと感覚が戻らないので、ブラッシュアップしたいと思っています。
また、現在はリスクコンサルティングの仕事をしているので、リスクはマネジメントしてどうコントロールするかが大事と痛感しています。リスクは避けてばかりではダメで、リスクテイキングしないと新たな事業展開もできません。私の中国進出もまさにリスクテイキングでした。
大企業はBCP(Business Continuity Plan、事業継続計画)に取り組んでいますが、海外進出をする中小企業にとってもBCPは避けられない問題だと思っています。また、災害以外の事業リスクも対応する必要がありますね。国際的になると、カントリーリスク、政治的なリスクもあって考慮する範囲は広くなりますね。」
-最後に、山﨑さんにとって中小企業診断士とはどういう存在ですか。
「そうありたい、を含めて答えますと、中小企業に対しての町医者、ホームドクター。気軽に話して困ったときにお役にたつ、そういう存在でありたいですね。ドメスティックでも国際展開した企業に対してもコンサルティングの基本かなと思います。国際的なスキルやノウハウ、知識はもちろんあったほうがいいし、経験も大事だけど、より大事なのは基本的なEQ(Emotional Intelligence Quotient、心の知能指数)を持っていること。上から目線ではなく、寄り添って、クライアントが歩き出すのをサポートして差し上げる。
自分自身まだまだなので、アンテナは高く、腰は低く中小企業さん目線かつ自分でアンテナを高く持つ姿勢でいたいと思っています。」
4.インタビューを終えて
―山﨑さんの「自称ドメスティック診断士」とは、山﨑さんにとって海外は遠い話ではなく、ご自身の身近な世界の延長線にあると感じました。新聞で見て気になった会社には直接電話をして面接に行かれてしまうバイタリティと、勤務先で経営企画や経営など様々なプロジェクトマネジメントに懸命に取り組まれる中で利益管理やBS・PLの必要性を感じて中小企業診断士を取得されたこと、その後、海外進出をゼロから実現されたことがその後の診断士活動を含めたキャリアにつながられています。国際派診断士もまずは目の前のことに懸命に取り組むことの積み重ねであることを山崎さんから教えていただきました。
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(インタビュー&文責:藤田有貴子 中央支部国際部)
■山﨑 肇(やまざき はじめ)さん
京都市出身、同志社大学経済学部卒。小西六写真工業(現コニカミノルタ)で営業、企画部門を経て中国上海に販社設立・社長として現地赴任。2015年6月定年退職。2014年8月~翌年2月まで「企業診断」誌に「元気な酒蔵探訪記」を連載。東京協会中央支部国際部。2003年3月中小企業診断士登録、1級販売士。