グローバル・ウインド 1Q60 デュッセルドルフ(2013年12月)
Global Wind (グローバル・ウインド)
1Q60 デュッセルドルフ
デュッセルドルフ市(Düsseldorf)はドイツ連邦共和国の中のノルトライン=ヴェストファーレン州の州都で、ルール工業地帯の南西部のライン川河畔に位置し、金融やファッション、世界的な見本市の中心都市である。人口は2009年12月31日現在592,393人、日本企業の進出も盛んで、市内には約5,000人の日本人駐在員やその家族などが居住し、日本総領事館などのあるインマーマン通りは日本人街の様相を呈している。1971年にはデュッセルドルフ日本人学校が開校し、1990年前後には生徒数1000名近くにまで達した。
デュッセルドルフは芸術的な分野でも知られ、詩人ハインリヒ・ハイネ、音楽家ロベルト・シューマンやフェリックス・メンデルスゾーンもデュッセルドルフに関連した著名人である。デュッセルドルフ芸術アカデミーからは画家のパウル・クレーやヨーゼフ・ボイス、ゲルハルト・リヒターなどが育ち、電子音楽の先駆者で影響を与えたクラフトワークも、デュッセルドルフを起点としている。(wikipediaより抜粋)
文化的で先進的なデュッセルドルフも1960年当時はとても地味でした。在住の日本人は銀行、商社、運輸に限られ、数少ない日本人はまとまって仲良く暮らしており、正月のような日本的な行事でも、クリスマスやイースターのような欧州のイベントでも、日本人家族が集まっては食事会を催しておりました。
我が家はデュッセルドルフのはずれ、ライン川に近い、Lohausen村の借家でした。当時はわたしはまだ幼稚園年長程度で、泣いて、騒いでうるさく、有名な声楽家ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウがこの家の部屋を見に来たのに2階の日本人がうるさいので止めにした、と大家さんはいつまでもぼやいておりました。周りは果樹園と牧場という農村で、生絞り牛乳を隣からいただけましたが、日本人の胃腸には強烈過ぎて、残念ながら飲めませんでした。米や味噌などの日本食は珍しく、食事はパン、ソーセージ、ジャガイモ、ザワークラウト(酸っぱいキャベツ)のドイツ料理でしたので、箸を使うことがなく、たまに大使館主催の食事会で和食が供されると箸をうまく使えずに難儀したものでした。
農村とはいっても、町の中心からは車で20分程度なので、市街に勤めるサラリーマンの一部が住みはじめており、近くには日本人一家が移り住み、日曜になると市内に近い学校の部屋を借りた日本語教室が開かれていました。
デュッセルドルフ日本人学校のHP http://www.jisd.de/ を見ると、1960年から日本人会の努力で教室が開かれ、それが1971年の日本人学校(全日制)に発展したようです。
平日にドイツの小学校に通い、休みに日本語教室に通うとはずいぶん、大変だったようで、親は嫌がるわたしをだましながら連れて行ったようです。
日本人がまだ少ない時期の日本語教室は、先生お一人が1年から6年までの全員(といっても15名ぐらい)を見ていました。その先生は有名なオリンピック選手の息子さんと伺いましたが、残念ながらあまり記憶にはありません。デュッセルドルフ在住の日本人が万単位になると、小学校や中学校もマンモス化しました。そのころにデュッセルドルフに住んでいた私の従姉妹によると、日本人だけで固まって住み、日本食糧店で買い物し、子供はすべて全日制日本人学校に通うので、現地の方との接触が少なく、折角の外国生活はあまり面白くなかったそうです。1990年には1000名に達した日本人学校の生徒数は2008年には600名に減少しました。2001年に首都がボンからベルリンに変わり、金融都市フランクフルトが台頭してきたこともあり、デュッセルドルフの重要性は相対的には減じています。それでも、現在は地価の安価なデュッセルドルフ郊外に工場や事務所を構える日系企業は増えています。
わたしは1年生から3年生まで平日は地元の小学校に通いました。学校名はKleine gelbe Schule です。訳すと、「小さな黄色の学校」とそのまま校舎を形容しているのです。
創設は1797年と古く、通学していた頃も実際に2階建ての小さな学校の壁は黄色で、1年生から高学年まで一クラスずつで、クラスも20名ぐらいだったと記憶しています。
当時は、パン屋の息子はパン屋さんになり、靴屋の息子は靴屋になるのが当たり前の時代でした。ギムナジウムと呼ばれる進学校に進むのは一部の生徒で、それでも子供たちは将来の職業とは関係なく、仲良くあそんでいたものでした。教師は厳格で、ある中年の男性教師は授業の始まりによくピンを床に落として、その音が教室の後ろに聞こえるまでの静寂さを要求していました。そんな厳しい先生も休み時間になると子供たちの相手をして遊んでくれました。この学校にはホームページ http://www.kleine-gelbe-schule.de/をたまたま発見し、ドイツ出張の折には学校に寄り、校長先生にお願いして学校内をみせていただきました。今でもこじんまりしたきれいな小学校でした。東日本大震災の後で、「小さな黄色の学校」のPTA、教師と子供たちでカンパを募り、校内マラソン大会では校庭を一周走ると数ユーロが貯まり、学校のTシャツと一緒に日本に送ってくれました。すべてを縁あって知り合いました岩手県山田町の山田北小学校に寄付しました。関係の皆様ありがとうございました。
なお、記憶が曖昧な古い話しなので、皆様から修正や追加の要望がございましたら、kikunayamada@h3.dion.ne.jpまでお願いいたします。