グローバル・ウインド ベトナムと日本の100年前の繋がり(2013年11月)
Global Wind (グローバル・ウインド)
ベトナムと日本の100年前の繋がり
100年前にベトナム独立を志してはるばる日本までやってきたファン・ボイ・チャウをご存知でしょうか。先日9月末には日越友好40週年を記念してTBSとベトナムのVTV共同制作のドラマ「パートナー~愛しき百年の友へ~」が放映されました。このドラマの題材でもある、100年前に起こったベトナム独立運動であるドンズー運動についてお伝えします。最近はチャイナプラスワンの進出先として語られることの多いベトナムですが、歴史にも目を向けてみてはいかがでしょうか。
1.ドンズー運動について
1.1. ドンズー運動の起こりと広がり
1883年以来、ベトナムはフランス領インドシナとしてフランスの統治下に置かれていました。ベトナムの政治団体「維新会」を立ち上げて独立を志していたファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu/潘佩珠)は日露戦争でアジアの小国である日本が大国ロシアに勝利したことに衝撃を受け、日本に渡りました。日本へは中国を経由し、上海から神戸に渡り、開通したばかりの東海道線で横浜まで来たそうです。
日本にわたった理由は、独立に対する武力援助を求めるため。犬養毅と大隈重信と面会(*1)して援助の要請をしたが断られ、その代わりに人材の育成が需要だという話をされました。これを聞いたファン・ボイ・チャウはベトナムから日本に向けて留学生の送り出しを始めました。これがドンズー運動です。維新会が宣伝や資金集めを行い、組織的にサポートしました。当時のベトナムではフランスの厳しい統治によりベトナム人の出入国はとても困難でしたが、この運動を通じて200人ものベトナム人が日本に学びに来ました。
ちなみにドンズー運動は漢字では東遊運動と書きます。文字通り、東(日本)に遊学しようという運動です。
運動を通じて日本に渡ったファン・チュー・チンは横浜に丙午軒という2階建ての寮を設立しました。ファン・チュー・チンは日本の富国強兵政策に対して批判的であり、またフランスと協力し、民主主義の原則を訴えてベトナムの独立を志すなどファン・ボイ・チャウとは少々考えが違っていたので一緒に活動することはありませんでしたが、ベトナム人の教育水準を高めて人材の育成をするという点では一致していました。その後ファン・チュー・チンはハノイに慶應義塾に倣って東京義塾(*2)を開学しました。「義塾」は慈善の義捐金で公益のために無料で教育を施す学校を意味しており、この東京義塾も授業料を無償にして貴族ではない一般民衆に対してクオック・グー(Quốc Ngữ/國語:ベトナム語のアルファベット表記。従来の漢字表記に対して習得が簡単)を使って近代化や西欧思想などを教えていました。この東京義塾を見習う形で梅林義塾や玉川義塾という学校が建立されました。
*1 : 当時のベトナムでは漢字が使用されていたため筆談(漢文)にて会話が可能だったそうです。今もベトナム語は漢字で書き表すことも可能です。例えば、ありがとうはCảm Ơn(カンオン・カモン)といいますが、漢字では「感恩」と書き、日本語の音読みと近い読み方をします。
*2 : 東京は日本の東京ではなく、トンキンと読み、ベトナム北部の地名です。現在もトンキン湾など地名が残っています。
1.2. フランスによる弾圧
このような運動をフランス総督府は弾圧を行います。留学生の親族を投獄したり、日本絵の送金を妨害するなどの工作をしたほか、1907年に日仏条約を結んだ日本に対して留学生の引き渡しを要求しました。1908年には日本政府が留学生の解散を命じ、多くの留学生は日本から去ることになります。日本に裏切られたという思いから自ら命を絶った者もいるそうです。日仏双方の政府によるこの措置によってこの運動は縮小せざるを得ませんでした。同じ時期にファン・チュー・チンもフランス総督府により逮捕され、東京義塾も設立1年で閉鎖されてしまいました。
1.3. 浅羽佐喜太郎による支援
日本政府の解散令の後もファン・ボイ・チャウは日本に残り続けました。以前ベトナム人の同士を助けてくれたという浅羽佐喜太郎という医者に連絡し、1700円もの大金を支援してもらいました。当時の校長の月給が18円とのことなので、かなりの大金です。その手紙には「手元にはこれだけしかありませんが、またお知らせ下されば出来るだけのことをします。」と書かれていました。
1.4. ドンズー運動の終焉
翌年の1909年にはベトナム人が全て国外追放となり、ファン・ボイ・チャウもベトナムへ帰ることになりました。この際、犬養毅から2000円の援助と横浜から香港への100人分のチケットが贈られたそうです。
1.5. ファン・ボイ・チャウの再来日
国外追放を受けて帰国した8年後の1917年、ファン・ボイ・チャウは再び日本に戻ってきました。しかし浅羽佐喜太郎は1910年に亡くなっており、お礼をいうこともできなかったので翌年記念碑を建立することにしました。記念碑の建立には彼の資金だけでは足りず、賛同した当時の東浅羽村の学校からの援助を受けて作成されました。この石碑は今も静岡県に残っています。
その後、彼はベトナムを独立させることはできず、ベトナムの独立は1945年9月まで待つことになります。ちなみに1945年の独立宣言には「我々はフランスからではなく、日本から我々の独立をもぎ取った。」と記載されています。(*3)
*3 : 1945年3月よりベトナムは日本統治下に置かれていました。
2.静岡県に残る浅羽佐喜太郎の石碑
先日、静岡県に残っている石碑を見に行ってきました。当時の浅羽町は現在は袋井市になっています。東名自動車道袋井I.Cから車で15分ほどの常林寺にその石碑があります。
とても外国のつながりがあるとは思えないような小さなお寺でした。この門をくぐってすぐ左手に石碑があります。
こちらがファン・ボイ・チャウが建立した石碑です。石碑には以下の文字が刻まれています。
われらは国難のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。
豪空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。
大正七年三月 越南光復会同人
石碑の隣には袋井市教育委員会による解説がありました。
3.最後に
この石碑に訪問したことをFacebookに書いたところ、複数人のベトナム人から「行きたい」というコメントと「いいね!」を貰いました。浅羽佐喜太郎の名は知らずとも、当時独立を志したものがいて日本から援助を受けていたことは多くのベトナム人友人が知っていました。おそらく歴史の授業で教えているのだと思います。ベトナムで仕事をしている日本人として知らなかったことを少し恥ずかしいと感じました。
上にも書いた通り、独立を志して学びに来た先が日本である他、日本からの独立を行っているなど大変日本と強い結び付きがある国です。当時の日本には感謝し、また、太平洋戦争時代の日本については「ファシスト日本」という呼称(*4)を用いて敵視し、そして今は「日本が好き」と応える割合が9割を超えているという親日国家です。
*4 : ベトナム独立宣言文に記載されているほか、学校教育でそのように習ったとの友人談。
経済の文脈で語られることの多いベトナム、そして東南アジアですが、GDPや市場規模だけではなく文化、歴史にも目を向けて見ると面白いのではないかと思います。
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